貴族が愛でた豊かな土地

平安京が遷都され、京の都には宮廷文化が花開きます。
そんな中、伏見の地は天皇の遊猟地とされました。
そして、平安京を遷都した桓武天皇、
その孫の仁明天皇の陵墓が定められたことから
いよいよ伏見と宮廷の結びつきは強まります。
ゆたかな水が織りなす、風光明媚なこの伏見に
貴族たちは競って山荘を建てはじめるようになります。
平安時代といえばこの一族、藤原氏は
山荘を建てただけでなく、政治的・軍事的に交通の要衝となる伏見を
摂関政治を行ううえで重要視しました。
やはり、伏見は各所を結ぶ土地として発展を遂げたのです。
そして、白河上皇による院政がはじまると同時に
鳥羽離宮(現在の城南宮のあるあたり)が営まれ
伏見はついに政治の中心、歴史の表舞台へと躍り出ます。
鳥羽離宮のまわりには院の近臣や貴族などが移り住んだため
「あたかも都遷りのごとし」であったといわれています。
こうして見ていくと、伏見は
京文化の影響を強く受けてはいるものの
平安京の別荘地として、むしろ都に勝るとも劣らない衛星都市として
文化を紡いできたことがわかります。
ゆたかな土地に根差した、もともとあったくらしに
平安京の文化が入ってきて
それをまた、生活へと紡いでいくように変化してきたのです。
そしてその長い積み重ねの流れは
天下統一の千両役者、豊臣秀吉によって大きく変化を迎えることとなります。
その変化はどのようにつむがれるのか、それはまた次回のお話
