太閤秀吉の城下町、首都・伏見
平安京の遷都、そして伏見が院政の舞台となって以降、
後鳥羽上皇が承久の乱で敗れたことにより、その院政は一旦幕を閉じます。
次にこの伏見の地が表舞台へと名を轟かせるのは
戦国の世の終わり、豊臣秀吉が天下統一を成し遂げた後になります。
信長が土台を築き上げ、秀吉が成し遂げ、家康がしっかりと固めたことで
日本という国が統一されたことは広く知られていることと思います。
しかし、統一された天下を確かなものにした、その大舞台が
この伏見であったことはそれほど知られていないのかもしれません。
秀吉が太政大臣を任じられ、豊臣姓を名乗ったのち
彼は伏見に目をつけ、城を建てようとします。
それは一体なぜだったのでしょうか
このころ、物を運ぶのには水運が利用されていました。
ここに太閤秀吉が伏見に目をつけた理由があります。
その当時、現在は干拓され姿を変えた「巨椋池(おぐらいけ)」という
巨大な、湖とも呼べる池が伏見の運輸を担っていました。
そしてこの巨椋池は、商人の町・大坂から
京の都へとつづく非常に重要な場所だったのです。
さらには、東から京都へ入るルートにも位置していた伏見を
押さえることによって、秀吉は時の日本をも押さえようとしたのです。
秀吉、というと大阪城のイメージが強いかもしれません。
しかし実際に居を構え、政治を執り行おうとしたのは伏見城においてだったのです。
その証拠に、一度築城したものの大地震によって破壊された伏見城を
秀吉は多大な力を費やしてもう一度建て直しています。
そして、彼の濃密な人生の終わりに選ばれた場所は伏見城でした。
天下統一という大仕事を引き継いだ家康も
江戸城に幕府を移すまでのおよそ20年、伏見で政治を執り行い
さらに江戸城に移ったあとも、京都奉行所とは別に
伏見に奉行所を置き、この地を重要視しつづけました。
農耕から文化が発展するさなか、平安京の貴族文化を
くらしのなかで紡いだまち、伏見は
戦国武将の時代、この国の発展を担う中心となり
桃山文化の中心地となって、さらなる歴史・文化を紡いでいきました。
ちなみに伏見にある桃山という地名は桃山文化のそれなのです。
そして江戸幕府による約250年の日本の平和、
その末期、幕末を志士たちが時代を駆け抜けるように
伏見のまちを舞台に活躍します。
それはまた、次回のお話